不動産も経営者保証もなしで、なぜ融資が通ったのか ──「企業価値担保権」を登記の現場から司法書士が解説
「自社には技術もノウハウもあるのに、担保にできる不動産がないから融資を断られた」。
「事業承継を考えているが、後継者に経営者保証を引き継がせるのが心苦しい」。
中小企業やスタートアップの経営者から、私たち司法書士がよく受けるご相談です。
2026年5月25日、こうした悩みに対処する新しい選択肢が加わりました。「企業価値担保権」です。不動産担保や経営者個人の保証ではなく、「事業そのものの価値」を担保に資金調達できる制度で、同日施行の「事業性融資の推進等に関する法律(事業性融資推進法)」によって創設されました。
本記事では、登記と企業法務などを専門とする司法書士の立場から、制度の要点に加えて、実際に使うとなったときに現場で何が起きるのかを中心に解説します。新聞記事やAIの要約では出てこない、登記実務の勘所までお伝えします。
まず3行で:企業価値担保権とは
- 担保の対象は、特定の不動産ではなく会社の総財産(事業性融資推進法7条)。将来取得する財産や、ノウハウ・顧客基盤といった無形資産(=事業の将来性)も含まれます。
- 不動産がなくても、稼ぐ力(キャッシュフロー)と将来性が評価されれば融資の道が開ける——これが従来の融資との決定的な違いです。
- ただし効力を持たせるには商業登記簿への登記が必須で、ここに司法書士が深く関わります。
図:企業価値担保権の概要(2026年5月25日施行)
経営者が押さえるべき3つの特徴
1. 「今ある資産」ではなく「これから稼ぐ力」で評価される
従来の担保では、不動産などの有形資産に乏しいスタートアップは、十分な融資を受けるのが難しいという問題がありました。企業価値担保権では、のれん・ノウハウ・顧客基盤といった無形の財産も担保として評価されるうえ、将来において会社の財産に属するものまで含めて評価してもらえます。事業計画や技術力といった将来・定性情報に光が当たり、有形資産の少ない企業や、長年の顧客基盤・ブランドを持つ老舗が、その強みを評価されて資金を調達できる仕組みです。
図:担保の対象に含まれるもの
2. 経営者保証に頼らない融資設計
これまで事業承継では、後継者が経営者保証を引き継ぐことが大きな心理的・経済的負担でした。企業価値担保権を用いる融資では、経営者個人の保証契約に基づく権利の行使が、債務者の粉飾などの虚偽報告といった例外を除いて制限されます(保証そのものを一律に禁止する制度ではありません)。これにより、後継者が背負う個人保証のプレッシャーが大きく和らぎます。実際の現場でも、たとえば老舗の旅館などが数億円単位の融資を受ける際、個人保証が大きな障壁になっていました。企業価値担保権を活用すれば、こうした経営者保証の負担が制限されるため、「心理的にも利用しやすい」という声が聞かれます。
図:経営者保証の扱い(原則と例外)
3. 「セキュリティ・トラスト」で担保を専門機関が管理
企業価値担保権は、セキュリティ・トラスト(担保権の信託)の仕組みを使います。お金を貸す金融機関が担保権を直接握るのではなく、内閣総理大臣の免許を受けた信託会社(または信託業務を兼営する金融機関)が担保権を管理します。これにより担保権の濫用を防ぎ、取引先などの一般債権者を保護しながら、金融機関による伴走支援(モニタリング)が行われます。【司法書士の本領】この制度は「どこに、どう登記」されるのか
ここからが、AIの一般解説では踏み込みにくい登記実務の話です。
登記先は不動産登記簿ではなく「商業登記簿」
企業価値担保権は会社の総財産を対象とするため、個別の不動産登記簿ではなく、債務者である会社の商業登記簿に新設された「企業価値担保権区」に登記されます(同法15条。登記申請の方法は法務局の案内を参照)。「登記して初めて効力が生まれる」という重さ
ここが実務上もっとも神経を使う点です。企業価値担保権は、登記が効力発生要件であり、かつ対抗要件です。つまり信託契約を結ぶだけでは足りず、法務局で登記が完了して初めて担保としての法的効力が生じます。融資実行のタイミングと登記のタイミングがずれれば、当事者の想定した保全が空白になりかねません。なお、設定後に事業譲渡などで担保を実行する局面では、手続きが裁判所の関与のもとで進み、関連する登記も裁判所書記官の嘱託によって行われます。そのため、司法書士が能動的に関与するのは「設定時」が中心です。だからこそ、効力発生日に確実に登記を入れられるよう、事前準備が決定的に重要になります。
図:司法書士の出番(設定時/実行時)
商業登記簿の記録イメージ(企業価値担保権区)
実際の登記簿には、おおむね次のような情報が記録されます。- 順位番号:1
- 登記の目的:企業価値担保権設定
- 受付年月日・受付番号:令和8年5月25日 第1234号
- 原因:令和8年5月25日 企業価値担保権信託
- 権利者その他の事項:企業価値担保権者 東京都〇〇区〇〇〇丁目〇番〇号 株式会社〇〇銀行
設定前の「既存担保の網羅調査」が成否を分ける
企業価値担保権を設定する前に、その会社にすでに別の担保が入っていないかを漏れなく洗い出す必要があります。不動産の抵当権だけでなく、動産譲渡登記・債権譲渡登記まで含めた調査が欠かせません。司法書士は「所有不動産記録証明書」などを取得し、既存の担保権と企業価値担保権の優先劣後関係を専門的に整理します。ここを見落とすと、いざというときの回収順位が想定と食い違います。「前提登記」で却下されないために
会社の商号や本店所在地が登記簿上で最新の状態でなければ、申請は却下されます。役員変更が長く放置されているケースも要注意です。そのため、本店移転・商号変更といった前提登記が必要かどうかを事前に点検します。設定登記でつまずきやすいポイント(実務の勘所)
施行直後のいま、現場でとくに神経を使うのが次の2点です。① オンライン申請ができず、書面申請になる
本稿を執筆している2026年(令和8年)6月17日時点では、企業価値担保権についてオンライン指定庁に指定された法務局が存在しないため、オンライン申請はできず、書面申請のみとなります(法務局の案内でも「書面申請のみ」と明記)。スケジュールも書面前提で逆算する必要があります。
※オンライン申請の可否は今後変わる可能性があります。申請時点の最新の指定状況は法務局でご確認ください。
図:実務の注意点① オンライン申請は不可(書面申請のみ)
② 「登記済証となる素材」を金融機関に事前確認する
オンライン未指定庁では、登記完了後に交付されるのが登記済証です(オンライン指定庁となるまでの経過的な取扱いで、将来は登記識別情報に切り替わる見込みです)。この登記済証は、申請時に提出した書面(=素材)に登記官が処理を加えて作成されるため、素材の提供を忘れると登記済証そのものが発行されません。通常の不動産売買の感覚とは異なるため、「素材を何にするか」をあらかじめ金融機関に確認しておくことが、後のトラブルを防ぐ勘所です。
図:実務の注意点② 登記済証の「素材」
従来の担保(不動産抵当権など)と何が違うのか
抵当権では、金融機関は融資の後の経営にはあまり口を出さない、ということもあります。これに対し企業価値担保権は、貸し手・借り手の双方がより将来を見据えて事業に注力することを促す制度です。結果として、借り手の事業の着実な成長や事業悪化の回避が図られ、融資の堅実な返済につながることが期待されています。
コスト:登録免許税が「一律」で済む
最大の違いのひとつがコストです。全資産に個別に担保を設定しようとすると、不動産・動産・債権ごとに手続きが必要で、登録免許税も借入額に連動して高額になりがちでした。企業価値担保権は会社全体を包括的に一つの担保とするため、設定時の登録免許税は借入額にかかわらず1件3万円(登録免許税法の定めによる)で済みます。10億円の融資を受けた場合の登録免許税
- 抵当権で設定した場合:約400万円(債権額の0.4%)
- 企業価値担保権:3万円(一律)
図:登録免許税の比較(10億円の融資の場合)
この差は歴然で、コスト面からお客様に驚かれることも少なくありません。
実行時:「切り売り」ではなく「事業ごと譲渡」
万一、担保が実行される場面でも、個別の不動産や機械を解体的に売却するのではなく、事業の価値を保ったまま事業譲渡などを行うのが基本とされています。結果として、従業員の雇用や取引先(一般債権者)との関係が保護されやすくなります。注意点:事業活動の制約と報告義務
メリットの裏返しとして、総財産が担保に入るため、「通常の事業活動の範囲を超える財産処分」(重要財産の売却・事業譲渡等)には、原則として金融機関等の事前同意が必要になります(同法20条)。また将来性を評価して融資する制度の性質上、定期的な事業計画の進捗報告や財務状況の提出が求められ、金融機関との密なコミュニケーションが前提になります。補足:極度額の扱い
極度額(上限額)の設定は任意で、借り手から請求があれば設定されます(同法9条)。事業の成長に応じた資金需要の増加にも対応できる柔軟な設計です。なお、登記簿に記録される取引情報は前述のとおり最小限にとどまります。まとめ ── 司法書士 渡邉貴宏より
2026年5月に始まった企業価値担保権は、不動産や経営者保証に頼らず、企業の「将来性」と「事業価値」で資金を調達できる画期的な制度です。有形資産の少ないスタートアップや、経営者保証の負担に悩む中小企業にとって、新たな成長の起爆剤になり得ます。
図:制度を「知っている」と「使いこなす」は別
ご存じのとおり、不動産の価値を担保する権利が「抵当権」、企業の価値を担保する権利が「企業価値担保権」——こう整理すると覚えやすいかもしれません。
一方で、この制度を安全に使うには、既存担保との高度な優先劣後整理や、効力発生要件である登記を実行日に確実に間に合わせる段取りが欠かせません。「制度を知っている」ことと「実務で使いこなす」ことの間には、まだ大きな距離があります。
多摩トラスト(東京都小平市)では、資金調達に伴う複雑な登記手続きや企業法務に幅広く対応しています。企業価値担保権の活用をご検討の際は、制度の理解から登記実務までを一気通貫でサポートいたしますので、まずはお気軽にお問い合わせください。